電車のマナーについて考えたことがある

わたし、美術の専門学校に行っていたのだけど、卒業制作を電車内のマナー広告にした。なにせわたしはそのときすごく神経質で敏感で。ウォークマンの音漏れとか、優先座席の座り方とか、携帯電話の扱い方とか、2人分とる座り方とかに、とにかく不満を抱いていた。「なんでこんな大音量で聞くんだろう」とか「なんでこんな座り方するんだろう」とか、個人に対して文句を言ってやりたいとさえ思っていた。だけど、調べていくうちにだんだん視点が変わってきた。(というか、あれから5年、日々変わり続けているのだけど。)それは、その問題について個人に言ったところで何にも変わらないだろう、ということ。これは諦めの意味ではない。どういう意味かというと、問題はもっと上の階層にあるのではないか?ということだ。「自分のことが一番になっていて、自分以外のことに気がまわらない状態にしている社会の状況」に問題があるのではないかということ。そう、わたしにも覚えがある。それは日々の生活の中でおこる。ベビーカーを押すひと、重い荷物を持つひと、疲れていそうな人、酔い潰れているひと、道に倒れているひと、そんな「ひとびと」を目にしたとき。自分に余裕のあるときは、そう、声をかけることができる。でも自分に余裕のないときはどうだろう?自分のことでせいいっぱいだから、声をかけることができない。親切にすることがマストだとは、決して思わないし、強制もしない。でも、後者のとき、わたしは自分に余裕が持てていないこと、疲れているんだということを実感する。そして、やっぱり、すこし、残念に思う。できたらのびのび、やさしく、やわらかく生きたい。

わたしは、だれかに、声を、かけたい。