はやくげんきになってね、のはなし

はやくげんきになってね、といいにくくなったのはいつからだったっけな。「うつのひとにがんばってっていったらだめなんだよせつ」をしってからというものこれはよくいしきするようになったきがする。じっさい「はやくよくなってね」っていうのにはいわかんがある。だってだれかからみて「よくないほう」からしても「はやくよく」なれたら、そりゃなりたいだろう。そこになぜはやさをもとめられるのかっていうのと、よくなることがすいしんされすぎているのがきにくわない。そもそも「ぐあいのいい○○」がかんげいされて「ぐあいのわるい○○」はひていされているきがする(そもそもいいわるいってなんやろか)それはうまれてきてせいがこうていされていて、しはひていされがちというのにもにているきもしてきた。ここまではいいわるいのかんかくのはなし。しかしそうかんがえていたらあめはいやだというかんかくもすこしにているなあとぼんやりおもったりもした。まああめがどうかときかれるとばいくはのわたしはだいすきとてばなしでよろこぶでもないのだけれどでんしゃにのるこうじつができたりがいしゅつするよていがなくひさしぶりにあめをみたりきいたりするとまあまあすきだったりするのもじじつですがそれはどうでもよくってぜんていとしてあめがぜんめんてきにわるいみたいないいかたをするのにいわかんがあるってことだとおもう。そうなるとおかねってのもそうなのかとかおもったりしている。たとえばおかねはこわいとかわるいとかいらないとかねいやもちろんいわかんなきゃそれでいいのだけどいわかんあったりするんです。自分以外の人に難癖をつけるというわけではなく、自分が使うことばについて、もうちょっと考え直していきたい。