ゆでたまごのこと

藤田くんと電話していたら、とうとう、自分の中の人間関係の話がまとまりそうなので、書き留めておく。(先日まで「バームクーヘン」で表現していた人間関係をここに「ゆでたまご」で言い換えることにする。)

さてイメージしてみましょう。まずは卵を大きな鍋の中にそうっと入れて、水をたくさん入れます。しっかり卵が浸かるように入れましょう。弱火でいいので、グツグツとゆで、もういいかな、というところで、ゆでるのは、おしまいです。(いきなり冷水につけてあげると、あとからむきやすいそうですよ。)さあ、殻のついたままのゆでたまごを、包丁で半分に切って下さい。たてでも、よこでも、かまいません。殻がちょっと音を立ててバリバリと崩れてしまいましたね、でも特に問題ありません。あと、この、卵をゆでるとこの文章は、ほんとは特にいりません。書きたかっただけです。

さて、このときの断面図を具体的に思い描いてみてください。まずは中心から①生命の核、黄身の部分。ここはわたし、すなわち、自分自身と考えます。②黄身の周辺を大きく包み込んでいる、ここは大事な白身ですね。いいバランスが保たれているでしょうか?これは自分のまわりの「人としてすき」な分類のひとびとです。③そして問題がここ。これは殻の部分です。ここは「いわゆる“恋”やいわゆる“愛”の対象としてすきな人」です。

人間関係は簡単に分けると、この三層にわかれているのでは?ということにたどり着いています。現時点でこの③がわりと厄介です。③から始まると、アッサリ②に戻り“にくい”。いやそれは私が、という意味ではなくて、客観的に見て、ということなんだけれど、それは非常にもったいないことだと思っているんですね。とはいえ①から②の③がベストなのではなく、③から②でももちろんすばらしい。というよりも、行ったり来たりできる関係性というのも、とてもすばらしいと、思ったりもする。

そして、最近思うのが「果たして③の概念は必要なのか?」ということ。この26年間それなりに、いわゆる「交際」「結婚」「出産」「老後」などについていろいろと考えを巡らせてきたけれど、他人から奨励されたり、批判されたり色々だった。「おとしごろ」になると「ジブンノコセキノウエデノイセイニアタルタイショウシャ」の「カレシ」「カノジョ」ができて当然で「コウサイ」したらゆくゆくは「ケッコン」そんで「コドモ」というのが世の中での暗黙のルール。カタカナで表記したのは違和感を感じているところ。このへんは知らないうちに「Must化」されている気がする。ただ、わたしは、もう、その手には、のりたくない。関係性の軸も、きまりごとも、とっぱらいたい。いま、その過渡期にきているところ。ルールは、自分でつくるものだ。

そう、私は、喫茶店のモーニングでたべる、ゆでたまごが、とても、すきだ。