電車のマナーについて考えたことがある

わたし、美術の専門学校に行っていたのだけど、卒業制作を電車内のマナー広告にした。なにせわたしはそのときすごく神経質で敏感で。ウォークマンの音漏れとか、優先座席の座り方とか、携帯電話の扱い方とか、2人分とる座り方とかに、とにかく不満を抱いていた。「なんでこんな大音量で聞くんだろう」とか「なんでこんな座り方するんだろう」とか、個人に対して文句を言ってやりたいとさえ思っていた。だけど、調べていくうちにだんだん視点が変わってきた。(というか、あれから5年、日々変わり続けているのだけど。)それは、その問題について個人に言ったところで何にも変わらないだろう、ということ。これは諦めの意味ではない。どういう意味かというと、問題はもっと上の階層にあるのではないか?ということだ。「自分のことが一番になっていて、自分以外のことに気がまわらない状態にしている社会の状況」に問題があるのではないかということ。そう、わたしにも覚えがある。それは日々の生活の中でおこる。ベビーカーを押すひと、重い荷物を持つひと、疲れていそうな人、酔い潰れているひと、道に倒れているひと、そんな「ひとびと」を目にしたとき。自分に余裕のあるときは、そう、声をかけることができる。でも自分に余裕のないときはどうだろう?自分のことでせいいっぱいだから、声をかけることができない。親切にすることがマストだとは、決して思わないし、強制もしない。でも、後者のとき、わたしは自分に余裕が持てていないこと、疲れているんだということを実感する。そして、やっぱり、すこし、残念に思う。できたらのびのび、やさしく、やわらかく生きたい。

わたしは、だれかに、声を、かけたい。

つくる側、つくられる側

こちらのブログは「考えるのは苦手だ」「議論するのはいやだ」という方には読むことをお勧めしません。積極的に読みたいという方だけ読んで頂きたいと思います。。。

タイトルの件はつまり生命の話です。

何かというと、生命をそんなに簡単に「つくる」ということが許されていいのか?ということです。人間の生命についてはよく「自分の遺伝子を残したい」とか「次の世界のため」とか「二人の愛の証」とか言ったりするわけなんですが…そもそもその生命は生まれたくて生まれるのか?ここがまず疑問です。

またよくある話で思春期青少年の「生んでくれなんて、頼んでない!」発言があるかと思うんですが、あれは何で言ったら必ずビンタされてしまうのでしょうか?

当の本人たちは生んでから数年は「できちゃった」とか「ハネムーンベイビー」とか言ってうかれている訳ですが、その数年後に一連の流れの中で「あんたなんか生むんじゃなかった」とか「ほんとは欲しくなかった」とか言われることになると、生まれる側としては前述の発言にもなるわけだと思うんですよ。自分たちの判断で産んでおいてそれはないだろう、と思います。

とにかく、つくる、つくらない、うむ、うまない、は選択できるんだから、なぜつくるか?なぜうむか?について、きちんと考えてからそうしたい。

「成人したら結婚して、子供をつくる」ってのが全肯定されすぎていて、様々な人のプレッシャーになる部分もあると思いますね。そこが一番の問題なんじゃないかなー。

いまの仕事で高校生と関わって「こどもがいかに親の道具になっているか」ということに直面して改めてそういうことを考えざるを得ない状況になったかと思います。

経済的に不可能な場合もあるし、現実的に自分が今後20年ほどの大仕事に関われる自信も、あまりない。しかも自分自身の人生が最優先でなくなりそうなのもちょっとこわくもある。「もうっ!そんなネガティブなことばっか言ってたら子供なんて産めないよーッ☆孫の顔も見せてくれないのー><」と親に何度肩を叩かれても、さらに納得できない自分がいるんです。今日はそんなところ。このページはまた随時更新します。

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